青担当が黄色推しになった話 過去編
はじめまして。
東京でOLをしている、アラサーになったばかりの女です。独身です。
かれこれ15年以上”オタク”という活動をしてきた私が、最近まさかハマると思っていなかった沼に落ちてしまいました。ストン
落ち方がそれはもう、「これはてブロ書けるんでは?」という典型的なソレだったので、だったら書いてみようと。
さて、私のオタク遍歴をざっと説明しましょう。
親族の約85%が女な家系に生まれた私。まわりにはオタクの諸先輩方がたくさんいる環境でした。
そうです、ジャニオタです。
小さいころからSMAP、少年隊、シブガキ隊などの音楽を聴き、叔母からは「私は稲垣吾郎にケンカ売った(当時実家が堀越学園の近くだった)」などの逸話を聞き、すくすくと成長しました。
最初にハマったのは、ジャニーズではなくモーニング娘。父親の影響でした。ヨッスィ大好きだった。
そこから小学生高学年になり、ようやくジャニーズオタクの門をたたくのです。赤西仁との出会いでした。
友人たちと少年倶楽部を見漁り、交換日記にはほぼ毎回赤西の話題を書き、ハルカナ約束を永遠歌ってました。
まあ、当時NEWS、関ジャニ∞、ならびにジュニア(森本兄弟など)をゆるっと見てはいましたが、
KAT-TUNのデビューが決まり、Real Faceを聞いた瞬間。「ああ、もうジュニアを推すのはやめよう。デビューすると変わるんだ。」と幼ながらに感じたのをずっと、覚えていました。
ジュニアはもう推さない
これが私の、青春時代の根幹です。
その後、花男新規(いうても5×5の時代から聞いてはいた)となり、嵐オタとなりました。
そこで初めて担当ができるのです。大野智との出会いでした。私は青担当になり、身なりから手持ちのものから、何から何まで青を身に着けるようになったのです。
親から高校卒業するまでライブには行くな、という謎のお達しがあり、それを忠実に守った私は大学生となり晴れて遠征に遠征を重ねたのです。北海道楽しかった、、
嵐がきっかけで、全国にたくさんの友達もできました。
特に大阪が多い、比率がおかしい、東京の友達よりも大阪の友達の方が多いって何?オタクすごいね?
ここではジャニーズをメインに話していますが、
中学時代は生田斗真にも傾き、グローブ座の舞台(ヴェローナの二紳士)を見に行ったり。高校時代は若手俳優に傾き、アミューズ(三浦春馬・佐藤健)と研音(福士蒼汰)のイベントにも行ったりしてました。趣味が多くなってきた時代。
大学生の間は、嵐を追いかけながらバンギャをしたり、大野智とジュニア時代シンメをしていた町田慎吾が事務所を辞めたので舞台を見に行ったり(その時の舞台でなぜか抽選にあたり、私は同じ舞台上でクイズをしたこともある)。
合間に始めたアニオタが主軸となってしまったり。
まぁ、いろいろなことがあったわけです。総じて言えるのは、顔と声がよければ好きになってしまう。DDの素質が磨かれてしまったということです。
ただ、一つ言っておくとDDだから黄色推しになったというわけではありません。
私はジュニアを推さない
これはゆるぎなく私の心にありました。
やっぱり私の中で担当は大野智だし、
あの人の歌とダンスに惚れたし、
ゆるーっとしてるとみせかけて俊敏性があるし、
まわり見て無いようでしっかり見てるし、
もしかしたら一般人だったらイケメンの部類には属さないかもしれないけど、
それでもあの人は光り輝いている。
ファンサなんてしてもらった記憶がない。
そもそもファンサしてもらえる席に座れたことが少ない。
それでも担当を変えなかったし、好きだった。好き。
今でも好き。
そんな青担当がコロっと黄色推しになった話。
過去編終了